日本の猫は時々御嶽山に修行に行くらしい。猫が家出すると、その猫は御嶽山に修行しに行ったんだよ、とする俚諺があるようだ。猫は御嶽山でどういう修行をしているのだろう?百草丸でも作っているのかな?御嶽山のそこかしこで、猫が百草丸を丸めていたらかわいいな。でも、百草丸は、大人なら一度に20粒も飲まなければいけないような細かいつぶつぶだから、猫もさぞや大変だろう。小さなつぶつぶが肉球の間に挟まったりしたら不快だろう。でもきっと、猫は根をつめて百草丸を丸めるようなことはしないだろう。一個丸めたら飽きちゃって、毛繕いをしたりあくびをしたり、自分も丸まって寝ちまったり、きっとそんなところだろう。
 日に日に秋が深まっていく。秋になると私は葡萄の甲斐路を食べる。巨峰やナイアガラなんかよりも甲斐路の方が好きだ。甲斐路を初めて買ったのは、わすれもしない、札幌北24条角にある八百屋さんだ。あそこは果物の種類が豊富で良かった。洋梨のブランデーを知ったのもあそこだ。7年前の9月3日に、I先生の訃報を知って、呆然としながらマンゴーを買ったのも、その北24条角の八百屋さんだ。梶井基次郎檸檬の、主人公が檸檬を買った果物屋さんの記述で、薄暗い中に煌々と照らされた果物屋の美しさが書かれている。北24条の八百屋は、美しい、と言うわけではないけれども、道路に面してたくさんの種類の果物が並んでいて、元気のいい売り子のおばさんと立ち寄る客とが生き生きとした空間を生んでいる。
 私はベートーベンの運命の第二楽章が好きだ。たっぷりとして溢れるようで、高校生の時、運命を聞きながらタゴールの詩を読んでいて、第二楽章にさしかかったときふと何か心に来るものがあってひどく感動したのを覚えている。
 ベルリオーズのレクイエムを聞きたい。
 今日の運動クラブのバスケットボールで3Pが決まったので気分は良い。
 最近よくわからないのは、人を殺すことは本当に悪なのか?ということだ。人を殺すことに限らず、世の中には"悪いこと"の暗黙の了解があって、たとえば、怠けることやずるいことは、だめなことになっている。ヒトラーユダヤ人大量殺戮の首謀者だから悪い人だ、ということになっている。アメリカ合衆国は、自分の国のことしか考えないで、陰でいろんな紛争の黒幕になって甘い汁をすっているから悪い国だ、と思っている人は多いだろう。でも、なんとなく、人をたくさん殺してやろうとたくらむ人や、自分だけいい思いをしようとほくそ笑む国があってもいいような気がする。そういう国や人は、ただ、そういう国や人なのであって、他の人より殺人度が高いとか、悪巧み度が高いとか、ただそれだけであって、別に悪くはないし、いてもいいんじゃないかと思う。究極的に、ヒトラーが人間の半分を殺しちゃったりアメリカ人以外の人がアメリカの奴隷になったとしても、そういう人類の運命もありなのではないかと思う。今正義とされている平和や平等を愛するヒューマニズムが普遍的で絶対だ、と信じるのは、なんだか気持ちが悪い。でも、こんなことを言うと、あいつは悪い思想を持っているとか酷い奴だとか言われていじめられそうだから、みんなの前では言わない。