なぜか毎朝、家の前に紙飛行機が落ちている。広告で折った紙飛行機が、バジルの鉢植えの前、バスルームと南瓜畑の間に着陸している。北北東に機首を向けて、少し傾いで露に濡れて。これに何かの意味があると思う?誰かから誰かに向けてのメッセージだろうか?たとえばもしかしたら、東欧共産主義国のスパイ・ワーリャからエージェント・セリョージャに向けて発せられた、西の楓の103番目の葉が落ちることを伝える暗号なのかもしれない。昨日の紙飛行機はピザ屋の広告だった。今朝の飛行機は不動産屋のマンション広告で折られたものだった。それはなにを意味するのだろう?それは、午後2時坂道を自転車で上る私の眼鏡の右レンズに蜻蛉が衝突したことと関係があるだろうか?
 本当のことを言えば、私は知っている。なぜ毎朝、家の前に紙飛行機が落ちているのか、それは隣のおじさんが夕暮れに紙飛行機を飛ばすからだ。おじさんは編み物をするおばさんと二人で住んでいて、遠くに双子の孫娘を持っている。おじさんは白いTシャツを着る。休日には白い帽子を被る。
 私が私のバジルからバジル虫を駆逐していると、おじさんは家から出てきて、こんにちはと言う。こんにちは、あついね、バジルの調子はどう?私はバジルの葉に作られたバジル巣穴からバジル虫を引きずり出し、石でつぶしながら、こんにちは、相変わらずですよ虫に食べられちゃって、と言う。つぶれたバジル虫からは濃厚なバジルの香りがする。
 たいていその後、おばさんと大家さんが出てきて話に加わる。そして記憶に残らない話を二人でぺちゃくちゃ始める。私は手持ちぶさたになってきて、南瓜葉の上に視線を漂わせ、一匹のちいちゃな雨蛙を見つける。雨蛙には一本の手が伸びてくる。それはおじさんの手で、おじさんは雨蛙を手のひらにつかみ、雨蛙は手のひらから逃れ空中にジャンプして地面に着地して、おじさんの手がそれを追いかけ、そんな連続を見ているとおばさんたちの話なんてちっとも耳に入ってこないんだよ。
 南瓜畑の向こうに猫の姿を認めると、私は挨拶に行く。いつもの灰色猫だ。ふーかふかのおなかを見せてお愛想をしてくれる。猫だ。今の生活に満足している?私はいやなことだらけだよ。嫌なことばっかで、逃げることも出来ないよ。いつかもう少し楽になったら一緒に逃げてくれる?二人で、二人乗り自転車に乗って、前には私が乗るからあんたは後ろ。ベダルを踏むのは私がやるから、あんたは尻尾を水平に保ってなびかせて、一緒に逃げよう。橋を越えて道を辿って。